家系
 藤原氏−中略−宮沢掃部時実−宮沢掃部祐実−宮沢実家−宮沢景実−宮沢元実(後、大松沢姓)−大松沢定実−大松沢頼実−広実−信実−以実−文実−定実−従実−良実−掃部介衡実(戊辰戦争の後、眞観寺住職)

大松沢家居城 大窪城
 大松沢は大郷町の北端にあり、50年ほど前は大松沢村として独立していました。その大松沢の山の上に大窪城址があります。現在は公園になっていて私が小さい頃は「おだで、おだで」と呼んでいました。今思えば「御館」のことですね。
 戦国時代の大郷町は北の大崎氏、中央の黒川氏、南の伊達氏とちょうどその中間にありました。大郷町でも南の大谷あたりの領地は大崎家が支配したり伊達家が取ったり葛西家が来たりとその勢力は安定しませんでした。
 そんな中で大松沢は宮沢時実公以来、伊達家に仕えその領土を一度たりとも他国に譲ったことはありませんでした。南の暴れ川、吉田川、東の湿地帯、品井沼など地の利もありましたが、何といっても大松沢家の文武の才と大窪城の存在が大きかったはずです。
 大松沢は伊達領の北限、もしくは先端として重要な位置を占め、利府城の留守氏、千石城(松山町)の遠藤氏らとともに伊達家の宮城県北部の勢力を保ったのでした。
大窪城平面略図
本丸から城下を望む
@本丸 A井戸
B二の丸から本丸を見たところ C的場(二の丸)
D三の丸 E三の丸斜面
F本丸北側 G空掘

大松沢 元実戦歴
出来事  内 容
1585年 人取り橋の戦い 伊達政宗の父、輝宗が畠山義継の策略によって殺され、その弔い合戦を二本松で行い大勝利を収める。大松沢元実はこのころ県北の情勢が安定していなかったため大崎の押さえとして留守を守っていたと思われる。
1588年 大崎の合戦 中央進出を計画している政宗はどうしても北の大崎の存在が気がかりだった。このとき大崎で内輪揉めがおこる。政宗はこれに乗じて大崎討伐を決意。大将に留守政景、侍大将に泉田重光、大松沢元実らの精鋭を中核にして松山町の千石城に集結した。留守政景は古川市の古川忠隆がこもる師山城を、泉田重光、大松沢元実らは西に回って南條隆信の居城、中新田城を激しく攻めた。
しかしこの最中に三本木町の桑折城にいた大崎家の諸葛孔明、黒川月舟斎晴氏の計により元実らは窮地に陥る。仕方なく退却するも三本木町の新沼城で身動きがとれなくなってしまった。急遽、留守政景が黒川晴氏と交渉、人質を出すことで見逃してもらう約束を取り付け、無事退却することができた。政宗の人生の中で唯一の敗戦である。
このとき大松沢元実の子息も人質となる。そのため政宗から慰めるための書状が元実宛に届けられた。
1589年 摺上ヶ原の戦い 北の大崎と和睦が成立した政宗は福島県の芦名氏、相馬氏を攻める。この戦の代表的な戦場は猪苗代湖の北岸でこの五日前に大松沢元実が着陣している。この戦がもし日本の中央で行なわれていたら関ヶ原の戦いくらいの歴史に残る戦になっていただろう。この戦に見事な采配で勝利した政宗は須賀川城を攻め二階堂氏をも滅ぼすことになる。須賀川城を攻めた頃、元実はすでに大窪城に戻っていたようで、政宗から元実宛に須賀川城攻めの結果と大崎の動向を警戒するように書状が届けられている。
1590年 秀吉の小田原征伐 豊臣秀吉は天下統一の最終仕上げとして、小田原の北条氏を攻める。このとき参戦を促す書状が政宗にも届く。大松沢元実は政宗といっしょに行きたくてたまらなかったが、政宗から以下のような書状が届いた。
「貴公も戦に参加したいことだろう。しかし現状は大崎の平定がなっておらず、留守中に不穏な動きがあれば自分も小田原で存分に戦をすることができない。よって貴公は大窪城にて十分大崎を警戒し、その押さえに当たってほしい。貴公に留守を任せておけば自分も安心して戦が出来ると言うものだ。帰国後には再び大崎攻めを行なうのでその時は先鋒として存分に働くように」
これを受けて元実は留守を任され、大崎の押さえを十分に果たした。しかし、帰国後の大崎攻めは行なわれず、大崎家は秀吉によって滅亡する。
1590年 葛西・大崎一揆 大崎領が秀吉のものになると、そこには家臣の木村吉清、清久父子が配された。木村父子は一万石程度の家臣でそれがいきなり大崎30万石の大大名となった。旧大崎家の残党を廃し、歴史ある大崎の地を収めるには明らかに器量不足だった。岩出山で一揆が勃発するとあっという間に大崎領全域に広がった。大松沢は問題なかったが、その一部は富谷町付近にも飛び火する。
この一揆鎮圧に伊達政宗、会津に所領を移された秀吉の家臣で織田信長の妹婿、蒲生氏郷が命令される。
大松沢元実も政宗に従い一揆の鎮圧に参戦する。しかし、この最中に一揆の首謀者は政宗であるという噂を蒲生氏郷が耳にする。氏郷は驚いて古川の名生城を攻めるとそのままそこにこもってしまった。政宗は何度も氏郷に書状を送るもびびって出てこない。しょうがないので政宗は一揆を一人で鎮圧。木村父子を助け出して、疑いを晴らすべく人質を氏郷に渡して名生城から氏郷を出し帰国させた。この氏郷無き後の名生城の城番に大松沢元実が任命されている。
1591年 宮崎合戦 一揆扇動の疑いをかけられた政宗は秀吉のもとへ上京。米沢へ帰国後、大崎再興を目指す笠原民部が加美町の宮崎城にこもったことを受けて、政宗は再び一揆鎮圧に乗り出す。しかし、大崎随一の堅塁といわれる宮崎城の攻撃は難航、知恵伊豆と呼ばれた浜田伊豆が戦死してしまった。大松沢元実も腰に鉄砲を喰らってしまったがひるむことなく敵の首2級を討ち取った。まさに伊達一族の猛将。宮崎城は原田宗時、後藤信康らの活躍により落城、続けて伊達軍は佐沼城に向かった。
1593年 文禄の役(朝鮮出兵) 豊臣秀吉から政宗に朝鮮出兵の命が下る。伊達軍が引き連れて出陣したのは将兵3千。大松沢元実もこれに従軍した(御届ニ被レ参候衆)。朝鮮の戦いのとき日本の連合軍で一番活躍したのは伊達政宗軍で日本国のみならず、諸外国にもその武勇を示すことになる。
1600年 関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦いのとき政宗の相手は智将、直江山城守兼継率いる上杉景勝。戦場は主に県南となる。大松沢元実は県南には行かず、おそらく県北で和賀忠親が一揆を起こすので守備に当たったと思われる。この一揆は政宗がどさくさに紛れて岩手県をもその領土としようと扇動したと言われ、元実の県北での動きも難しかったことだろう。
1614年 大阪冬の陣 関ヶ原の戦いの後、元実は仙台藩江戸留守居大番頭に任ぜられている。大阪の陣の記録に元実の名前が出てこないのでおそらく江戸の守護に当たっていたと思われる。
1615年 大阪夏の陣

大松沢逸話
箭楯明神の御加護  これは元実の祖父、実家の頃の話。いつものごとく大崎勢が大松沢に二手に分かれて攻めてきた。一手は志田郡の伊場野から、もう一手は松山街道から押し寄せた。実家も軍を二手に分けそれぞれに当たらせた。伊場野方面の敵は追い払うことが出来たが、松山方面の戦いは苦戦を強いられ大松沢の物見山まで陣を引き決死の防戦に備えた。全軍が死を覚悟したとき、どこからともなく20歳前の若武者が、白いひたたれを着、あし毛の馬に乗って現れ、敵に突っ込んだ。この若武者の武勇はまさに一騎当千、次々と敵を追い払うので味方も盛り返し、大崎勢を打ち返した。戦いの後、その若武者は何も言わず一人引き上げていくので見送ったところ、箭楯神社に入っていった。実家はさては明神様のご加護であったかと、一段と信仰を篤くし社殿を再興した。
右の写真は現在の箭楯神社。参拝しておくと困ったときに助けてくれるかもしれません。
元実、金ヶ崎へ転封!?  金ヶ崎城は現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町にあります。当時、伊達領の最北端にあり南部領との境でした。戦乱も一段落したある日、政宗から元実に書状が届きました。「金ヶ崎城に移って藩境の警備に当たってもらえないか?」政宗としては長い間大崎の押さえとして実績を残した元実を今度は南部領の押さえとしたかったのに違いありません。元実は自分を高く評価してくれた政宗に感激します。しかし、元実としては今まで苦楽を共にした大松沢の民と別れることはできませんでした。「殿の行為は非常にうれしいが、自分は大松沢の経営すらうまくできない薄禄者です。こんな私では金ヶ崎は警護できません。」と移転を辞退します。元実は長い戦乱の時代が終わり、これからは大松沢の民のために働きたかったに違いありません。孫の代になると大松沢の石高は倍近くにもなりました。

 



ちなみに後の金ヶ崎には大町氏が配されます。その家臣の中に実元の弟、「壱岐」がいました。金ヶ崎には武家屋敷が残っていて(諏訪小路といいます)現在でも大松沢家武家屋敷として残っています。

現在の金ヶ崎城跡から北上川を望んだところ。当時金ヶ崎の石高は3000石、大松沢の石高はわずか150石に過ぎませんでした。実元公の大松沢を思う気持ちがひしひしと伝わってきます。


現在の大松沢家武家屋敷。巨木と門が歴史を物語る。
元実没す。  大松沢元実が亡くなったのは1617年でした。1617年といえば大阪の陣がすでに終わっており、天下泰平の始まり頃です。この前年に徳川家康も亡くなっています。動乱の戦国期に頑として大松沢を守り続けてくれた我が町のお殿様は、天下から争いを無くし泰平の世の中が到来するまで生き続けてくれました。恐れ多いことですが感無量の大往生だったと思います。享年60歳。ただひとつ、吉原遊廓が出来たのがこの年の10月で江戸留守居大番頭をしていながらここに行かせてやれなかったのが私的に残念です。
真観寺墓地のはずれにある大松沢氏廟所。元実の墓碑は確認されていませんが、大松沢を見下ろす山に体を休めるようにひっそりと立てられています。


伊達政宗公座像 仙台藩伊達家上屋敷跡
大松沢公民館に保管されている伊達政宗公座像。これは伊達政宗公が亡くなってから100年後、200年後に行なわれた大法要の際、縁の深い伊達一門、一家、一族に下賜された江戸中期頃のものらしいです。政宗公が亡くなられたのが1636年ですから江戸中期というと1736年頃ということでしょうか。
伊達家にとっての大松沢家の重要さが伺えます。
東京汐留にあるの日テレ社屋近辺は、伊達家の江戸屋敷があったところです。実元とその息子定実は江戸留守居番頭という大役を任されていました。
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