登米市 旧迫町 佐沼城址(鹿ヶ城公園)
 佐沼城は築城の際、鎮護のために鹿を生き埋めにしたことから「鹿ヶ城」とも呼ばれます。沼や川に囲まれた天然の要害「水城」です。山城しか見たことがない私にはすごく新鮮でした。
 佐沼城は奥州藤原秀衡の家臣、照井太郎高直によって築かれたといわれ、戦国時代は大崎家家臣、石川氏の居城でした。


水城だけあって見事な内堀です。
 戦国時代、佐沼城は大崎一揆の主戦場として2度、伊達政宗軍に攻められます。一度目は豊臣秀吉の命令に従わなかったため滅んだ大崎、葛西に変わって配された木村吉清、清久親子の時です。その親子の悪政に耐えかね、住民は一揆を起こします(1590年)。木村親子は一揆を抑えきれず、ここ佐沼城にこもって伊達政宗に救出されました。政宗はその後秀吉に呼び出されます。その隙に再び一揆が勃発。このとき佐沼城にこもったのは士卒、住民合わせて約2500名。その中の一人、大崎家家臣で武勇で知られる一栗隆春がいました。このとき隆春は政宗に「政宗を木の葉猿かと思いしに一つ栗をば落とさざりけり」(政宗猿ごときを討ち取るのは栗を落とすようなものだ)という歌を陣地に射込みます。これに対して政宗は「よそにのみ見れば木の間の一つ栗終わりに猿の餌食になるべし」という返歌を送り、佐沼城を圧倒的な兵力で落城させました。

 一揆が鎮定するとここ佐沼城は徳川家康によって修復され地方の要害として一新されました。この地が伊達領になったことを受けて佐沼城には家臣の津田景康が配されました。景康は戦国時代の戦にはほとんど政宗に従軍し功を上げ、さらに政宗謀反の疑いを晴らすべく秀吉に書状を届けたりと大活躍した人です。迫町は津田氏により治水、新田開発などがなされて行きます。


宮城県内のお城の建物は現在、シロアリに攻められています。
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