大郷町 支倉常長のお墓
 大郷町東成田に支倉常長メモリアルパークがあります。支倉常長は伊達政宗の命によりスペインへ通商に行きました。帰ってきた後、日本はキリスト教禁止令が出されていたので政宗が人里はなれたこの地で余生を送らせ、84歳で亡くなりました。その後、この地に知行を与えられていた支倉家が代々お墓を守ってきたといわれています。
 小説家、山岡荘八先生の「伊達政宗」では支倉常長はスペインに無敵艦隊と言われている艦隊を借りにいったとされ、政宗は大阪の陣に間に合わせたかったと書かれています。しかし、無敵艦隊は1588年、イギリスの艦隊にすでに敗れていたため思惑は外れました。実際に艦隊が大阪の陣に参戦していたとしたらどうなっていたことか・・・。
 これが支倉常長のお墓と言われているものです。でも支倉常長のお墓と称される箇所は宮城県に3箇所ありどこが本当のお墓なのかは誰にもわかりません。
 個人的には常長が帰国後、この辺りに住んでいたのは本当のようで帰国後の1年後に亡くなりそのことを江戸幕府に届けています。家臣思いの政宗が偽って報告したとも十分考えられますが、お墓を建立することは難しかったのではないかと思います。当時、江戸幕府はお家取り潰しを不祥事にかこつけておこなっており、土井利勝あたりが仙台藩に目を光らせていたとしたら、お墓が見つかり虚偽の報告で訴えられたらそれこそ仙台藩存亡の危機になってしまいます。
 この場所は人里離れた場所と言われますが、実際は車で北に10分のところに大松沢元実の居城、大窪城があり、南に10分のところに政宗のおじさん留守政景の居城、利府城があり、西に15分のところには政宗の三男宗清の居城、下草城がありと人の行き来は結構あったはずです。これら家臣団で監視したとも考えられますがやはりお墓は立てにくいはず。もし立てるとしてももっと後、江戸幕府が安定期に入ってからとか明治になってからとかなら立てられたかもしれません。
 お墓の場所は土台がコンクリートなのでシロアリの食害にあってもよさそうですがいっさい痕跡はありませんでした。シロアリも恐れ多くて食べるのをためらったのかもしれません。ということは、本物の常長公のお墓ということになる?
川崎町にある支倉常長のお墓に行って真相を探ってきました。
 
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