川崎町 上楯城址と支倉常長のお墓
 川崎町にある上楯城は伊達家家臣支倉氏の居城でした。円福寺が城下にあります。その円福寺には支倉常長のお墓があり、わが町大郷町のお墓の真相を探るべく行ってまいりました。


こういうシロアリの食害には見慣れてきました。
 山道を案内どおり進みましたが、結構深い山で一人ではちょっと心細いかもしれません。幸い今回は友人と二人でしたので助かりました。山を登りきると土塁が見えてきて本丸跡、二の丸跡の標識がありました。現在は林になっていますが土塁が比較的良い状態で残っています。

本丸に行く途中にあった大けや木。ほとんどトトロの世界。
 帰り道を探している途中(迷います)、何か動物を見つけました。シ、シシガミ様!?よく見ると川崎の町獣になっているカモシカでした。自然の生カモシカは初めてです。本当はもっと近くで撮りたかったんですが、デーダラボッチになられると困るので近寄りませんでした。でもいいものを見させてもらいました。

 これが支倉常長のお墓といわれているところです。円福寺の墓地内にあり目立つところに建てられています。常長のお墓といわれる場所は大郷、川崎、仙台の3箇所が伝えられています。現時点で2箇所見ているのですがその私の見解を以下に述べます。

支倉常長 〜失われた墓標〜 byサポート仙北
 まず、常長がスペインから帰ってきた時キリスト教は禁止されていました。しかし、常長はローマで偉い人に洗礼を受けて身も心もキリシタンになっています。政宗は大役を果たした常長にキリシタンをやめろとか、従わないと罰するぞということは言えませんでした。しかし、幕府への面目もあります。そこで政宗は考えました。常長を病気で死んだことにして、支倉家居城のまん前に、これ見よがしに常長のお墓を建立したのです。幕府には常長死亡届を提出するとともに、常長を大郷町に移しました。常長の行動、及び幕府の目付けに対しては付近の伊達一族大松沢元実、留守政景、政宗三男伊達宗清らに監視させました。死んだことになった常長は自然豊かな大郷町でキリシタンであることは誰にも言わず、ひっそりと84歳までその地で暮らしました。その後、常長の子孫はそのお墓が常長のものであることを隠しつつ、守っていったのでした。
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