大和町 吉岡城と天皇寺
 戦国時代、黒川郡の大部分は黒川家の所領でしたが、秀吉による奥州仕置きや大崎一揆などの事変を経て、伊達家の所領となりました。
 この黒川の地を与えられたのが伊達政宗の三男、伊達河内守宗清でした。領主となった宗清は1611年下草城に移り住みます。しかし、下草の地は利便性や水害の心配があることから、1615年政宗が今村に築城を命じると翌1616年、吉岡城が完成します。現在の「吉岡」という地名はこの吉岡城が由来しているそうです。

 現在は吉岡城の跡をはっきりとみることはできませんが、隅櫓があったとされる場所に城内大堤公園がきれいに整備されています。

公園東側にある土手は当時の土塁。


 政宗の三男、宗清は1600年京都伏見で生まれました。母は新造の方と言われますが、出産後わずか4年にしてこの母は亡くなってしまいます。その後、政宗は宗清の養育を側室であった飯坂の局に委ね、飯坂家の名跡を宗清に継がせました。

 宗清の正室は水沢城主、留守宗利の息女です。宗利の母は戦国末期に黒川郡を治めた知将、黒川晴氏の息女ですから、こんなところにも黒川つながりがあったと思うと驚きです。まぁそういう縁があったので奥さんにしたのかもしれませんが・・・。

天皇寺


 天皇寺はもともと飯坂家の菩提寺として福島県にありましたが、宗清が飯坂家を再興したことを受けて仙台藩領に移ってきました。

 吉岡の礎を築いた伊達河内守宗清は35歳という若さで病没します。また養母として政宗に託された飯坂の局も役目を終えたかのように同年に亡くなりました。

 現在天皇寺境内にはこの二人の菩提が弔われています。


飯坂の局のお墓

天皇寺にある伊達河内守宗清のお墓
城内大堤公園
地 図
天皇寺
地 図
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