大郷町 大窪城址

 大窪城は戦国時代、伊達一族の大松沢元実(旧宮沢姓)の居城で大崎家、葛西家の押さえとして伊達の「北の守り」でした。実際にここから北に車で10分で「師山城(古川市)」、20分も行くと「古川城(古川市)」や「涌谷城(涌谷町)」がありました。大松沢元実候は伊達政宗が芦名や相馬と戦ったときに常に先方を命ぜられ功を上げました。また、豊臣秀吉が朝鮮出兵を伊達政宗に命じたときも従軍しました。その功が認められ宮沢姓から大松沢姓を名乗ることを許され、伊達一族に列せられたのです。ちなみに伊達家では「家格」を設定して家臣を用いていました。一門・一家・淳一家・一族・宿老・着座・太刀上・召出の8階級があり、一門では石川家、亘理伊達家など有名どころが11家、一家が17家、準一家10家、そして大松沢家が一族22家の内の一家です。
 現在大窪城址は桜の隠れた名所になっています。当社はこの城跡のすぐ下にあり、江戸時代は城下町として栄えて(?)いたかもしれません。

 

 右の写真は井戸の跡です。実際に使っていたのかどうかわかりません。でもシロアリにはだいぶ前にやられていたみたいです。元実候もシロアリには困っていたことでしょう。  

 公園内にあるやぐらです。建物と朽木の区別がないシロアリにとって単なるエサ。

 
 本丸跡から南側に向かって撮った写真。大郷町内で戦があったというのは聞いたことがありませんが私が大窪城を攻めるなら、北側は深い山で攻めらないので、写真中央の山を越えると吉田川があり、それを渡ったところに「築館城」というのがあるのでそこを拠点にして川を挟んで攻めるか、松山町にある千石城あたりを拠点として東側から平地の戦いを挑むかのどっちかでしょう。
伊達政宗がこの城に来たという記録が残っていないのがさみしい・・・。
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