大阪城と伊達政宗軍の大阪の陣 |
天下無双の城 |
1583年、天下人秀吉は大阪城の築城に取り掛かり、城全体で400ヘクタールという前代未聞の城を築き上げました。何万の兵が押し寄せようとも落ちることは無いと言わしめたその城は、誰もが「一度はここに籠って戦いたい」と野望を抱かせるに十分な城だったことでしょう。 秀吉亡き後、豊臣秀頼には太閤が残した莫大な財産とこの大阪城が手中に入りました。その後、豊臣の天下は徐々に徳川家に傾きかけ、それを不満とする大阪方は戦火の火種をくすぶりだし始めました。このとき、秀頼にこの不満を抑える器量か、もしくはこの大阪城がなかったら豊臣家は存続できたかもしれません。財力があり落ちることのない城にいる人々にはどんな相手にも負けることはないという錯覚にとらわれ、1614年ついに大阪冬の陣の火蓋が切られてしまいました。 一説には太閤崩御の際、伊達政宗が秀頼を大阪から離し、徳川家康のもとで育てるようにと進言していたということですが、事実とすればこれらを見越してのことだったのでしょう。 |
大阪の陣 |
冬の陣で総掘りを埋められた大阪城にはもはや大群を相手に篭城する能力は残っていませんでした。夏の陣が勃発すると大阪方の名将真田幸村、後藤基次らは大阪城の南から押し寄せる徳川軍を城外で迎え撃ちます。戦場となった道明寺近辺では伊達政宗率いる徳川軍との壮絶な戦いが繰り広げられ、基次は伊達軍の鉄砲隊の前に倒れました。 その後伊達隊は追撃し、真田隊と激突するも両者譲らず一旦兵を引き上げます。このとき、死を覚悟した真田幸村は息女、阿梅に自分の戒名を持たせて伊達軍の片倉小十郎に預けたとされ、宮城県白石市には幸村の供養碑があります。 その後大阪方では次々と敗戦、ついには幸村も討ち取られ、残された秀頼と淀君は大阪城の一角で自刃します。1615年5月8日、繁栄を極めた豊臣家はわずか2代で歴史に幕を下ろしました。 |
伊達軍はこの川の両岸付近で大阪方と激突 |
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